心霊写真の真相 @
心霊写真はインチキか? それとも、真実か?
福来博士の人格
しかし、福来という人物を知れば知るほど、彼が詐術やごまかしができる人間とはとても思えない。福来の真面目な研究論文を読んでもその感を深くするが、彼の近くにいた人々の証言によっても、彼の人間性は明らかである。
山形大学名誉教授の中沢信午は、昭和21年の秋に土井晩翠の紹介で福来を知り、以来、毎日のように仙台東6番丁にある福来の家を訪ねて話を聞き、そればかりか彼の供をして出歩いた人物である。その中沢が福来に会った時の第一印象を、彼の『超心理学者福来友吉の生涯』という本の中で次のように書いている。
「時代物の私服に身を包み、黒ずんだモンペをはいた、小柄な、白髪の、いかにも気さくな、一見書生風の老人と向かい合った時、これがかの福来博士か……と、一瞬意外な感じであった。それ以前から、名前だけは話に聞いて知ってはいた。だが福来博士といえば、実際にはあり得ない心霊現象を研究して、しかもそれを真実だと信じ込んでいる学者だと思っていたのである。しかし、彼の顔付きや話ぶりから、私は彼が偽りのない真正直な人間であるのを見て取った。
また彼の博学と経験とは、とうてい並の人間の及ばないものであるのを知った」。
東北大学金属材料研究所の所長を務めた白川勇記は、鉄の神様といわれた本多光太郎との共同研究で新KS鋼を発明した金属物理学者である。彼は新KS鋼の発明によって、金属の分野で最も権威のある本多光太郎賞を受賞し、『広辞苑』にもその名を留めている。そんな白川ではあるが、彼は心霊問題にも深く関っていた。白川は、晩翠の長男英一と高校からの友達であった為、晩翠とも親しかった。その晩翠が福来と親しく交際していたことから福来とも親しくなり、心霊問題に関心を寄せるようになったのである。
白川は福来の家に出入りするうち心霊問題の重要性を認識し、福来の良き理解者となった。そのうち白川の下にも心霊に関心を持つ学生が集まり出した為、昭和11年に、福来を顧問に迎えて東北心霊科学研究会を結成したりもした。福来死後は、福来心理学研究所の建設に尽力し、完成後は、その所長を務めた。
その白川が昭和57年に、当時仙台で布教活動をしていた私の説法を河北新報の案内欄で知って、聞きにきた。白川は私が説く念力と福来が説く念力とが何ら矛盾するものでないことに驚いたようで、すぐに一の会の会員となった。以来白川は、私の話を熱心に毎回欠かさず聞きにくるようになった。その白川に御法座会場で、「福来さんという人は、どういう人でした」と聞いたことがある。
その時白川は、「福来先生は、生真面目な学者らしい学者でした。人格的にも尊敬できる人で、随分と誹謗中傷を受けたにもかかわらず、常に堂々としておられたですね」と答えたのを覚えている。
このように、福来の身近いた人達は、福来を真正直な人間だったと証言しているのである。従って、福来が詐術を行ったのでは、と疑うには相当な無理がある。いずれにせよ、客観的に見て福来の実験は信用のおけるものといっていい。
引用元
「死後の存在」
著者: 中根繁
発行所: 真流一の会
p88〜p101
※ 真流一の会の許可を得て掲載させていただいている文章です。
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