Home > 心霊写真の真相 > 心霊写真の真相A >日本の心霊研究

Home

心霊写真の真相@

心霊写真の真相A
心霊写真の真相B

心霊写真の真相C


心霊写真感想

紹介したい本

問い合わせ

リンク

サイトマップ

心霊写真の真相A

幽霊は実在するのか?しないのか?

日本の心霊研究

日本の心霊の科学的研究の歴史は、何といっても、明治、大正、昭和にわたって活躍した福来友吉 ( 1869〜1952 ) から始まる。彼は東京帝国大学助教授時代の1910年4月に超能力者・御船千鶴子の透視の研究を開始し、同年12月から同じく超能力者・長尾郁子の透視を研究した。その郁子の透視実験中に、「念写発見」という世界初の快挙をなし遂げた。

しかし世の愚かなる科学者達が、「科学者の立場から見て、そのような現象はあり得ない」と一斉に反発。福来や郁子に対して、執拗な中傷、妨害を行った。それがもとで郁子は心を悩まして病没、福来は大学を辞めさせられることになった。

しかし、大学を辞めても彼の活動は精力的に続き、1917年には日本最高の超能力者・三田光一と出会い、様々な念写実験を繰り返した。1928年には財団法人大日本心霊研究所を大阪に設立、同年9月にはロンドンで開催された国際心霊主義者会議に出席して念写の大要を発表した。

また、現地ロンドンに滞在して英文の大著『透視と念写』を出版するかたわら、英国の田舎に住む超能力者、ウイリアム・ホープを訪ねて念写ができることを実験で確認し、心霊写真も撮った。後年彼は戦災によって仙台に移住したが、ここでも超能力者を招いて実験を重ね、著作に励んだ。そればかりか青年会や市民集会に積極的に出かけて心霊の問題を説いて回った。

そんな彼の姿に惹かれて有名無名の多くの人が彼の家を訪れるようになり、その中に、『荒城の月』を作詞したことで知られる土井晩翠や、晩翠の長男の級友で後に東北大学金属材料研究所の所長となる白川勇記 ( 東北帝国大学助教授 ) がいた。中でも白川は人望、見識ともにあり、「白川先生が関心を寄せる心霊とは何か」と多くの学生が彼の下にも集まり出し、それが発展して1946年に、東北心霊科学研究会が発足した。

会長は白川、顧問に福来友吉、土井晩翠、赤痢菌を発見した志賀潔が就いた。研究会発足後の福来は会員を自分の子供のようにこよなく愛し、その将来に期待しつつ、すでに亡くなっていた三田光一の業績を後世に残さんとして、『日本の最も偉大な超能力者三田光一』と題した原稿に心力を注いだ。

完成後、それを米国の超心理学雑誌『サイキック・オブザーバー』に送り届けたが、彼はその直後に軽い風邪を引いて寝込み、1952年、昭和27年3月13日、遂に不帰の人となった。83歳だった。彼の死後、残された人々は何をしていいか分からず悲しみに沈んでいたが、福来夫人が皆を励ますように、「何としても研究所を建てて、福来の研究を継続し、世に超心理現象があることを認めさせたい」と強く希望を述べた。それに応えて白川ら福来ゆかりの人達が奔走、その苦労が実って1960年に、仙台、称念寺の空地に福来心理学研究所が建立され、日本の心霊研究を推進発展させることになった。

しかし残念ながら、白川らの奮闘にもかかわらず、福来以後の日本の心霊研究はほとんどといっていいほど進展が見られなかった。その状況は現在も続いており、政府が大学に資金援助し活発に研究を展開しているアメリカと比べ、日本には未だ国公私立を通じて大学に超心理学の研究機関は一つもなく、講座さえもない。

まことに情けないが、この目を覆うばかりの彼我の差はどうして生じたのか。それは、アメリカがジョセフ・ラインの研究を正当に評価してラインを大学に留めたのに対し、日本では、ラインに先駆けて行った世界に誇るべき福来の研究を迷信の一言で片づけて、福来を大学から追放してしまったからである。 すなわち、アメリカはラインの研究を基礎にしてどんどんと研究を進め、超心理学の最先進国となり、日本は福来を追放することによって公の場から心霊研究を締め出し、超心理学の最後進国となったのである。

このアメリカと日本の天と地ほどの開きを考えた時、福来の追放は日本にとって、悔やみても余りある過ちであったといえよう。


引用元
「死後の存在」
著者: 中根繁
発行所: 真流一の会
p101〜p112




※ 真流一の会の許可を得て掲載しいている文章です。



Copyright (C) 2007 Sinrei All Rights Reserved.